風 景 青 森 |
尻屋崎(尻屋崎灯台・寒立馬) |
訪問日 |
2013年 8月 2017年 5月(追記) |
詳 細 |
青森県 東通村にある岬で、下北半島の北東端になります。 北側が津軽海峡、東側が太平洋になる潮の変わり目にあります。 その為、昔より海流の影響を受け濃い霧がよく発生する難所として知られています。 あまりに難所であった為、江戸時代に航路は開かれていましたが東北・蝦夷地への物資の輸送は日本海経由の 西廻り航路(北前船)で行われていました。 当時の航海技術では犬吠崎と津軽海峡を安全に通過出来ず、積荷の保証が困難だった為わざわざ遠回りしてでも 確実な方から運搬していました。 このような海上交通の難所から1876年(明治9年)で東北地方で最初の灯台になる「尻屋埼灯台」が建設されました。 尻屋埼灯台は高さが33m(レンガ造りでは日本一の高さ)、単閃白色 10秒1閃光、光度は53万カンデラで日本最大級です。 明治9年10月に初点、同34年に日本初の電気灯に変更、昭和20年に米軍の攻撃を受け運用不能となり、 翌21年に仮点灯開始、26年に灯台復旧、平成17年に無人化されました。 また、明治10年には日本で始めて霧鐘が設置され、12年には霧笛が設置されました。 その時の霧鐘が千葉県の犬吠埼灯台にて展示されています。 日本の灯台50選、保存灯台Aランクとなっています。 この灯台の有名な話として、夜な夜な窓のところに灯りがともる「まぼろしの灯台」というお話があります。 昭和20年7月に米軍による射撃を受け灯台が破壊された際、標識技手と呼ばれる職員の方が殉職されました。 翌年5月23日に灯台職員が初めて窓にともる明かりを目撃しています。 7月には数名の漁師が「濃霧とエンジン故障で漂流していたところ、灯台のあかりを見つけて浜へ上陸できた」と礼を言いに 訪れています。また、船舶を運行する組合から「横浜に向かう時灯台に不動灯らしき明かりが点いていたが、帰りには消灯して いて見えなかった。現状を知らせてほしい」と照会を受けたそうです。 8月に仮設の灯火を点灯してからはこの現象は無くなりました。現在でもこの明かりが何だったか分かっていませんが、 殉職した職員の霊が点灯したのではという説が信じられています。 140年以上も点灯し津軽海峡に出入りする船の安全を守り続けています。 尻屋崎周辺には「寒立馬」(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されています。 元は平安時代には下北半島で放牧されていた南部馬の子孫にあたる馬でした。 江戸時代以降に軍用馬育成を目的に外来馬と交配し大型に改良されました。 冬の厳しい寒さと粗食に耐え持久力に富む為、農用馬として重宝されてきましたが農業の機械化の流れと共に 数が減り続け1995年には9頭にまで激減しました。 その後の保護策により現在は40頭ほどにまで回復しています。 名前の由来ですが、「寒立ち」とは、カモシカが冬季に長時間雪中に立ちつくす様をあらわしたマタギ言葉です。 寒立馬は元々は「野放馬」と呼ばれていましたが、尻屋崎の雪原で野放馬がじっと立っている様子が、カモシカの「寒立ち」に 似ていることから昭和45年に尻屋小中学校の校長が年頭の書初め会で、「東雲に勇みいななく寒立馬筑紫が原の嵐ものかは」 と詠んだのが広がりこう呼ばれるようになりました。 寒立馬は人に慣れているので近付く事が出来ますが十分に注意がいります。 何があっても自己責任になります。 馬と放牧地が県天然記念物に指定されています。 尻屋崎への道にはゲートがあり夜間と冬季は閉まっています。 また、寒立馬は冬季の間、近くのアタカと呼ばれる所に移されています。 2017年 5月追記 前回は、寒立馬に気を取られたのと、リサーチ不足で灯台に近づく事を出来ませんでした。 今回、天気には恵まれませんでしたが、敷地内を廻る事が出来ました。 青空の時も綺麗ですが、殺風景な岬では曇り空も荒々しさもあり良いかと思います。 |
行き方 |
むつ市から県道6号線を北東方向へ行くと終点が尻屋地区です。 入り口にはゲートがあります。開くのは7時〜です。 尻屋集落側(南側)のゲートの方が開く時間が遅いです。 |